てふてふちゃん

なんか猫が寝言を言ってます

カラオケに1日で2回行ったことの釈明

ブログを読んでくれている友人に「冒頭の2-3行の挨拶がいいね」との賛辞を賜りました。

何事も筆の入れ方が一番難しくないですか。ノートにせよPCにせよ簡単に書き直せるけど、習字や人生は白いキャンバスにひとたび書き入れたら覆水は盆に返すことができない。習字は指で数えられる画数で何とかしなくてはいけないから苦手だけど、一方、人生は生い先に期待ができるのでまだマシ。でも知ってましたか、2019年ももう20%が過ぎ去ったようです。

 

相変わらず始め方がわからないんですが、最近殊に思うのが「結局は自分が一番かわいいだけの話なんだな」ということ。

 

Twitterのミュート機能、結構みんなは使うのだろうか。私は使ったことはあるけど、結局今現在誰のこともミュートしてない。一見優しい人に見えるじゃないですか。でも理由をいくつか思い巡らしてみると自分は優しい人間でも何でもない訳です。

一つには非対称性の息苦しさ。

「俺たち親友だよな!」という言葉、明らかに強者のもつソレですよね。まず「自分は相手を親友だと思っている」という事実の提示および「お前もそう思ってるだろ?」という暗黙の了解の取り付け、これは無垢な強者の為せる技としか言いようがない。

友達は「自分にとっては15番目の友達だけど、相手にとっては34番目の友達」というような非対称な関係でも"友達"と呼べるけれど、"親友"って絶対的かつ対称的な関係ですよね。はいプロ、勝てません。ところでその類の強さや勇気を持たないまま生きてきた小生は「大事な友達」というオブラートな表現を身につけました。これだと相手に親友だと思われていなくても「え、親友という言葉は使ってない」と安心して自己保身ができますし、それでいて相手に特別感を押し付けることができる。この身勝手な表現、ぜひ使ってみてください。

対称な関係に憧れる飛べない鳥は、インスタの親しい友達機能に目に見えないバリアを感じ、青い鳥を求めて逃れることにしました。青い鳥のアプリです。「じゃあ縮小垢とかはどうなるんだ」というのは考えものですが、それでもそのアカウント内ではフォロー/フォロワー間は相互に対等な訳です。

 

二つ目は「結局は自分がかわいい」ということへの帰着。

"優しい"ってなんですか。 人を慮り傷つけない行動ができる人でしょうか。でもそれって言動とか表面的な事柄でしか判断できなくないですか。「言動には人柄が滲み出る」とはよく言ったものですが、その言動が何のためなのかって当人にしかわかりっこないですよね。

私がミュート機能を滅多に使わないのはそのボタンを押すたび、ミュート相手からいいねが来るたび、きっと「お前は所詮その程度の心の狭い人間だ」と竹槍で横腹を突かれるような気分になるからなのだろうと思います。自分が人と言葉を表立って介して争いたくないのも「そういう人間なんだ」と人から思われるのが嫌というだけ、もしかしたら人の趣味や考えに対して"寛容"なのも自分の不寛容さに腹を立てたくないからなのかも知れません。

"優しさ"ってその行為自体を指すのか、意図を指すのか、一枚捲った深層心理を指すのか。剥いても剥いても肉が見えてこないロールキャベツを食べてる気分になってきました。正直うんざりです。でも結局は自分中心に生きている一抹の自嘲を抱きつつまだあと何ヶ月かは生きていけるなという悦びを噛み締めてはいけませんか。

 

そうそう、明日は生まれてはじめて国内線の飛行機に乗ります。行く人来る人の大荷物で歩き回る足音、高い天井にぼんやりと響き渡るアナウンス、航空会社のカウンターが整然と並ぶ様、展望デッキから眺める飛行機の群れ、空港という日常と非日常の狭間を部外者として見るのが心から好き。明日もメタ視点で俯瞰ヲタクしたいと思います。

みんなにとっての旅行の醍醐味は何ですか。私は旅先で見た風景自体はもちろん、その風景を眺める私たちというあの瞬間にしか生成されない一期一会のシーンに記憶のシャッターを切ること、徐々に東京から離れていく道程、旅行という非日常に溶け込む交わす会話という日常、それらを丸ごとパッケージとして愛しています。そこに入れ替わり立ち代わり現れる人の顔を思い出して、当時から関係が変わってしまった人や変わらぬ人の顔や交わした言葉を思い出してはどちらにせよエモくなるというやつが好きです。

 

ところで、春休み中、週に1回ヒトカラに行っていました。ここで重要なのが「1回1時間を必ず守る」ということ。時間が短く有限であることを認識するからこそその時間をめいっぱい生きようとするものです。蝉みたいなこと言ってますね。私は生まれ変わったらバンドのボーカルになってステージに立ちたい。

ちなみに私は毎回定番で歌う曲は決まっており、さらに言うとハマると同じ曲をしばらく延々と聴いてるタイプです。この調子だと同じ人間にどハマりするのも頷けるといった具合なのでやめたいんですが。

 

しかし、今日は禁忌を犯して1日に2回、合計1.5時間カラオケに行ってしまいました。理由は簡単です。バイトで教える生徒が授業に来なかったので私がわざわざバイトに足を運んだ意義が消失したため、意義を補完するためです。

 

書きたかったのはそれだけのことです。ブログなんて所詮そんなもんです。

 

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最近幸せなんですかね。でも本質的には幸せじゃないとわかっててオセロに興じたり、友達とバカみたいに笑ったり、深夜の代々木公園で人がいないのをいいことにベラベラ喋ったり、色々やりたいことを書き出しては「自分には好きなことがあって幸せだ」なんて幸せな擬態をすることと、本質的に自分は幸せだと自分自身を騙し込むのはまるで違います。その限りにおいて幸せじゃないけど幸せ。このニュアンスは私にしかわからなくていい。