てふてふちゃん

なんか猫が寝言を言ってます

タピオカ元年になる前に。

昨日は自分についていくつかの知見を得ました。絶望です。

自分が居心地がいいと感じるのは、日本語以外の母語も交えて活発に意見を交換し、余暇というものに高い意識を保つ場ではなかったようです。日本語だけを喋って頭の消費電力を最大限までは使わず怠惰に余暇を楽しみながら好きな仕事をしてお金も欲しい人間みたいですね。わはは。

鶏口となるも牛後となるなかれとはよく言ったものの、やっぱその通りで「陽キャの中の陰キャ」より「陰キャの中の陽キャ」の方が幸せですよね〜。自分を陰キャだと思うのは月に15回くらいなのですが、今月の月15回枠は六本木ヒルズのとある会社に行った昨日が10回分くらい占めます。英語が拙くて議論で聞き手に撤しがちな自分に結構マジメに絶望しました。

自分は所詮psycological safetyを感じる場ないし仲良くなりたい場でしか喋れない人間です。人とご飯に行くときは基本サシ飯、お酒もゲームは好きじゃなくて穏やかに友達と飲みたい、これからも限られた場でしか陽キャにならない自分をこのまま偽って生きていこうか否かと逡巡しております。偽るという表現を用いている時点でこれまたお察しなのですが。

 

3月半ばに比べて穏やかな心地で特に書きたいことがないので、新年度の抱負を書きます。こういう抱負、1回も守れたことないのですが、一応書きます。

 

バランスの取れた人間になる。

つい先日、質問箱で「自己満ポエム(笑)」みたいな揶揄コメが初めて入ってたのでちょっと興奮しました。

誰にも嫌われない人間などというのは存在しない、「呟き」とはそういうものなのにミュートしないのは質問者が甘いだけ、と全くダメージを受けてませんが、客観的に見てちょっと良くない状態ですね。というのは他者から見てバランスが崩れた人間に成り果てている可能性が高いからです。

LIVE DAM精密採点DXの歌声チャートを想像してもらうと早いと思いますが、あれが綺麗な五角形になる状態がベストだと思っています。いわゆる深いことを考えている人は好きですが、それ以外の面(抜けてる、明るいなど)も適度に存在する人の均整の取れた洗練された感じが好きです。

ブログもずっとこの長さで書いてるとクドイんですよね〜。適宜自分自身に対して俯瞰ヲタクをやりたいと思います。

 

逃げるな。

自分の人生が逃げで彩られたものだと真っ向から認識した瞬間、森の中でライオンと対峙した気分になりました。対峙したことないけど。

やりたいことが見つからないって、やりたいことに焦点を絞る覚悟がないだけじゃないんですか。何事もできない理由を真っ先に探していやしませんか。

「ただの文系」になりたくなくて一年間何かとやってはいましたが、C++とかのプログラミング言語AWSとか心惹かれる訳じゃないのでやっぱり違うんだと思います。それに、機械学習をかじって今のインターン先に辿り着いたおかげで気付きがありました。

私は「自分にしかできないこと」なんてないと思っていますし、「いや、あるよ」と言えるほど頑張ってもいません。でもせめて刹那的でもやりたいと思ったことには一瞬一瞬力を注げる努力だけはしたいと思います。私がやりたいことをやるだけなので、そこに「向いてないよ」とかいう多己評価は要らない。

ということで、一年間やってきたことを技能として続けつつやりたいことをやっていきたいと思います。とりあえず列挙します。

・朝はきちんと起きて一日を活用する

・好きな授業はきちんと受け切り、前期教養の旨味を吸い尽くす

・将来のことを考え、積極的に場を探す

・英語の勉強をそろそろ真面目にやらないとマズい

・怠惰しないで車校に通う

・毎週水曜は身体を動かす

・新しくサークルを増やす(天文、楽器系など)

・授業を通じて人と仲良くなる

・何事も経験しないとわからない面があるのでアブノーマルなこともやりたい ※法律に抵触しない

・言葉や文章に何らかの形で携わる方法を模索する

・やっぱりピアノ弾きたい

 

隅々まで気を張った人間になる。

「あぁ敵わないな」と思った人の爪がきちんと切り揃えられている率、当社比で随分と高い。世間的には靴に気を遣ってるかどうかで人を見る人もいますね。自分がズボラだからこそ、これら結構機能するなと痛感しております。

一口に「可愛い」「美人」だと言っても何段階かあるなとということを最近感じている。顔立ちが整ってるだけが美人じゃないですよね。深爪しそうなくらいしっかり爪を切り揃えている人、食べる時の手先が綺麗な人、香水の匂いにこだわってる人、こういう美人とデートする度に不美人な私は「あぁ今生では勝てないだろうな」という現実に打ち砕かれる甘美な敗北感を味わいます。

爪をちゃんと切ってあるか、メイクや服装は乱れてないか、食べた後にうがいを忘れてないか、隅々まで凛と手を伸ばした先に見える未来はきっと今よりも変わってくるのだろう。

 

ひとつのことを同時にこなせない人間なのできっと全部はこなせないのですが、頭の片隅に置いておいて時折はハッと思い出せる状態にしておきたいと思います。スピッツの「春の歌」がめちゃめちゃいいです。新年度、心機一転よろしくお願いします。

 

 

ダイイングメッセージ

旅路に備えて買ったお弁当と去ってゆく友人から餞別にもらった三島由紀夫の『春の雪』を搭乗ゲートのそばに置き忘れ、アナウンスに気付かず離陸する。

...。

正直ああまたかと。いつも何か一つだけ足りない自分のままで残りの人生を生きてゆくのだろうかと思うとうんざりする。

読もうと思っていた小説が一冊手元にないのでその分旅路で頭に浮かんだことたちを取り留めもなく書き殴っていこうと思います。皮肉にも海と陸と空のコントラストが鮮やかで、こんな景色はなかなか見られないだろうなと惚れ入る絶好の旅日和でした。見て欲しいんだ〜。

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・もしも飛行機が墜ちたら

朝起きた時なぜか真っ先に頭に浮かんでブルーになったこと。"もしも飛行機が墜ちたら自分は誰に最後のメッセージを送るのか?"

飛行機ね、確率的に墜ちると思ってないです。それでも墜ちる時は墜ちるんでしょうけど、身近な人にせよ一方的な認知にせよ同年代で亡くなった人はこの一年でも春休み中でも割といるので死は不意に訪れるものでしょう。知り合いが亡くなろうが自分が死のうが驚くことではない。それに死ぬこと自体は私は怖くないです。

 

難しいな。「死ぬこと自体が怖い」というのは語弊がある。私が怖いのは意識を失うまでの身体的苦痛、フィギュアスケートの演技の途中で音楽が止まるように人生という舞台を病死以外の人為的理由で降板させられる無念、死後人々の記憶から自分の存在が徐々に消えていくという自力で抗えない事実、主にこの3つです。

 

それらに不意打ちで新しい恐怖が晴れて仲間入りしました。題して"急死が目の前に差し掛かった時に、最後のメッセージを送る相手を選べない自分に対する恐怖"です。おめでとうございます。

やっぱり生んで育ててくれた両親に感謝の意でも述べるべきですか?感謝の意を今さら述べてどうするの?だって死んじゃうんですよ。両親の慰めにはなるけど慰めじゃん。感謝の意は言わないと伝わらない?じゃあ両親じゃないなら大事な友達?恋人がいたら恋人?恋人って一過性の関係かもしれないから危険だよね。しかもこの人たちが死ぬ時は自分にはメッセージをくれない可能性は極めて高い。この非対称性ズルいよな。

考える時間がコンマ数秒しかなかったら?

.....

...

LINE開いていちばん上にトークがある人にとりあえずこれから死ぬという事実を送ってしまうかもしれない。

何が怖いって死に際して限られた時間で最後のメッセージを送る相手を選べない中途半端な人間関係しか築けなかった自分に失望すること。そしてまず「メッセージを誰にも送らない」という選択肢が欠落しがちな人間という存在、哀しいなあ。みんなもシュミレーションしとこうよ。

あ、あと私自身は六条御息所みたいなところがあるので少なくとも生き霊としては枕元に立ちたい人間が何人かいてもそれは不可能になるということが悔しいかもしれない。悔しい...ですよね?(櫻井くん風)

冗談です嘘。たぶん。

 

・空港の場所性

空港が好きという話はしました。年に何回かは用がないのに展望デッキに行きます。でも私が飛行機に乗ったのはラスベガスのカジノ(※年齢制限あり)に無邪気に立ち入ってコワモテの黒人警備員さんに超怒られてるのに「OK!」とニコニコ反応してた高1以来だったのでした。

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どこやねんここ。

しげしげと見ると羽田空港は様変わりしていました。手荷物預かりカウンターに人がおらず、機械が危険物の有無をレーダーでウユーンと確かめウィーンガシャンと荷物を格納しているのを見た時は宇宙旅行に行く気持ちになって興奮しましたね。子供かよ。

空港とかいう場所、しかしながらどんなに人工的になっても中身は変わらない。出張に行くサラリーマン、「一人旅なんですが」と空港係員に尋ねる小学生くらいの少年、私と同い年くらいの女子三人衆、飛び立つ人間にはそれぞれの心情や背景があり、それらを「ANA〇〇便」などというパッケージで内包して淡々と送り出していく空港、無言でロマンを背負う姿は偉大じゃないか。

 

最近ね、好きなことがわかってきました。身にもならない文章を書くこと、人の書いた荒削りの文章を読むこと、旅程なり美味しいお店なりの最適解を模索する過程、新しい場所を開拓すること、一瞬を削り取ること、、

そんなことを一切関係もない線形代数やら機械学習なんかをやりながら、何とか将来も好きなことを生きる術としてやる方法はないかな〜wなどとぼんやりと考えているのです。

 

ちなみに2Sは必修が外れたのをいいことに好きな授業を取り、自分の勉強をし、車校に行き、バイトをし、文章を書き、楽器をやり、旅行をし、好きなように生きていきますとここに宣言します。自分の生活の充実の上にプライベートは乗っかるので、これらが出来れば対人関係全般きっと上手くいく、はず。

 

・星屑にもなれやしないのだから

どこのバイキングに行ってもカレーを食べる、でも北海道に来たのにカニを食べないことに罪悪感を覚えてカニも食べる、ビンゴ大会で狙っていたくまとミニオンのぬいぐるみがイカ東ぽいお兄さんと可愛い女の子に取られたのが悔しくて泣きそうになる、勉強は並にやって並の成績を取り、人と違うことがしたいと言っても人の作った道筋しか辿れない、美術や音楽センスに恵まれていなければ鋭利な文章を綴る才能もない。

 

「善く生きる」ってまず善とはなんぞやという話になってしまうけれど、ひとつ思うのが感情を認めないと話にならない。私は「負けた」と思う相手には嫉妬するし、好きなものもあれば嫌いなもの、不快なものも多い。

ただこれを認めないで理屈をこねくり回すから自由になれない。嫌いな人がいても「嫌い」なんて言葉は辞書にはないかのように自分を騙し込むのと嫌いだという感情を認めた上で取り繕うことは表面上同じでも踏むプロセスは違う。私は後者でありたいと思っています。性格が悪いよね(笑)

凡人という言葉に逃げる凡人は結局他の誰でもない自分とやらにも星屑にもなれないけれど、等身大の自分を遺すことはできる。私は凡人として嫌いなものを嫌い、人の感性に反吐が出そうなくらい嫉妬しながら数センチくらいのヒールを履いたように少し背伸びをして今日も生きています。

 

・自分の強みについて

自分の容姿に全く自信はないけれど、自信があるパーツはあります。毛です。眉と真っ黒な髪です。

眉はチャチャッと美容院で揃えてもらいますが自眉の毛並みには満足しています。髪は染めてみたいけど、みんなと同じように染めたら私のロングの漆黒の髪というアイデンティティがなくなるんじゃなかろうかと踏み出せず、時々ヘッドスパでバイト帰りなんかに艶々にして帰宅しています。

大学に入って歯科矯正を始めました。コンタクトにしたし、脱毛やエステも探すし、まつげパーマもかけた。ダイエットは人生で123456回くらい試みています。

※いや、これでも人生の†最盛期†の高3よりはマシなんですが、最近身体を動かすことは正義だと7723周回って痛感しているので誰か本郷キャンパスの御殿下ジムでも年パス(9000yen)買って一緒に通おう。割とマジメに募集したい。

 

頑張れる部分は頑張りたいと思っている。イメチェンしたいと話すと「髪染めたら?」とほぼ口を揃えて言われるけれど、そうだよね、視覚的にいちばん変われるパーツはそこだもん。

でもみんなが同じだったらつまらなくないですか。みんなが流行りの眉毛・髪型にして二重にして"垢抜けよう"としても土台が違うからいちばんにはなれない、埋もれるだけ、だったら私は"埋もれる"努力をしつつ自分の勝負できる部分は自信をもって生きたい。動物なので毛繕いだけはしっかりとやっていきたいという話です。

 

取り留めもない旅路の思考、もう少しゆっくり書こうと思ったけど私はまだ最後のメッセージを誰かに伝えるのか・伝えるとしたら誰なのか決めかねているので、せめて今日という日まで生きた証として今宵もダイイングメッセージのブログを置いておきます。

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3月の富良野はまだまだ一面銀世界でした。脚本家の倉本聰氏の点描画が飾ってあったのですが、違う種類の木の梢が寄り添う絵に「不倫」という言葉が添えられていて痺れました。えっちすぎた。ラベンダーの季節の富良野にも行きたいですね。

カラオケに1日で2回行ったことの釈明

ブログを読んでくれている友人に「冒頭の2-3行の挨拶がいいね」との賛辞を賜りました。

何事も筆の入れ方が一番難しくないですか。ノートにせよPCにせよ簡単に書き直せるけど、習字や人生は白いキャンバスにひとたび書き入れたら覆水は盆に返すことができない。習字は指で数えられる画数で何とかしなくてはいけないから苦手だけど、一方、人生は生い先に期待ができるのでまだマシ。でも知ってましたか、2019年ももう20%が過ぎ去ったようです。

 

相変わらず始め方がわからないんですが、最近殊に思うのが「結局は自分が一番かわいいだけの話なんだな」ということ。

 

Twitterのミュート機能、結構みんなは使うのだろうか。私は使ったことはあるけど、結局今現在誰のこともミュートしてない。一見優しい人に見えるじゃないですか。でも理由をいくつか思い巡らしてみると自分は優しい人間でも何でもない訳です。

一つには非対称性の息苦しさ。

「俺たち親友だよな!」という言葉、明らかに強者のもつソレですよね。まず「自分は相手を親友だと思っている」という事実の提示および「お前もそう思ってるだろ?」という暗黙の了解の取り付け、これは無垢な強者の為せる技としか言いようがない。

友達は「自分にとっては15番目の友達だけど、相手にとっては34番目の友達」というような非対称な関係でも"友達"と呼べるけれど、"親友"って絶対的かつ対称的な関係ですよね。はいプロ、勝てません。ところでその類の強さや勇気を持たないまま生きてきた小生は「大事な友達」というオブラートな表現を身につけました。これだと相手に親友だと思われていなくても「え、親友という言葉は使ってない」と安心して自己保身ができますし、それでいて相手に特別感を押し付けることができる。この身勝手な表現、ぜひ使ってみてください。

対称な関係に憧れる飛べない鳥は、インスタの親しい友達機能に目に見えないバリアを感じ、青い鳥を求めて逃れることにしました。青い鳥のアプリです。「じゃあ縮小垢とかはどうなるんだ」というのは考えものですが、それでもそのアカウント内ではフォロー/フォロワー間は相互に対等な訳です。

 

二つ目は「結局は自分がかわいい」ということへの帰着。

"優しい"ってなんですか。 人を慮り傷つけない行動ができる人でしょうか。でもそれって言動とか表面的な事柄でしか判断できなくないですか。「言動には人柄が滲み出る」とはよく言ったものですが、その言動が何のためなのかって当人にしかわかりっこないですよね。

私がミュート機能を滅多に使わないのはそのボタンを押すたび、ミュート相手からいいねが来るたび、きっと「お前は所詮その程度の心の狭い人間だ」と竹槍で横腹を突かれるような気分になるからなのだろうと思います。自分が人と言葉を表立って介して争いたくないのも「そういう人間なんだ」と人から思われるのが嫌というだけ、もしかしたら人の趣味や考えに対して"寛容"なのも自分の不寛容さに腹を立てたくないからなのかも知れません。

"優しさ"ってその行為自体を指すのか、意図を指すのか、一枚捲った深層心理を指すのか。剥いても剥いても肉が見えてこないロールキャベツを食べてる気分になってきました。正直うんざりです。でも結局は自分中心に生きている一抹の自嘲を抱きつつまだあと何ヶ月かは生きていけるなという悦びを噛み締めてはいけませんか。

 

そうそう、明日は生まれてはじめて国内線の飛行機に乗ります。行く人来る人の大荷物で歩き回る足音、高い天井にぼんやりと響き渡るアナウンス、航空会社のカウンターが整然と並ぶ様、展望デッキから眺める飛行機の群れ、空港という日常と非日常の狭間を部外者として見るのが心から好き。明日もメタ視点で俯瞰ヲタクしたいと思います。

みんなにとっての旅行の醍醐味は何ですか。私は旅先で見た風景自体はもちろん、その風景を眺める私たちというあの瞬間にしか生成されない一期一会のシーンに記憶のシャッターを切ること、徐々に東京から離れていく道程、旅行という非日常に溶け込む交わす会話という日常、それらを丸ごとパッケージとして愛しています。そこに入れ替わり立ち代わり現れる人の顔を思い出して、当時から関係が変わってしまった人や変わらぬ人の顔や交わした言葉を思い出してはどちらにせよエモくなるというやつが好きです。

 

ところで、春休み中、週に1回ヒトカラに行っていました。ここで重要なのが「1回1時間を必ず守る」ということ。時間が短く有限であることを認識するからこそその時間をめいっぱい生きようとするものです。蝉みたいなこと言ってますね。私は生まれ変わったらバンドのボーカルになってステージに立ちたい。

ちなみに私は毎回定番で歌う曲は決まっており、さらに言うとハマると同じ曲をしばらく延々と聴いてるタイプです。この調子だと同じ人間にどハマりするのも頷けるといった具合なのでやめたいんですが。

 

しかし、今日は禁忌を犯して1日に2回、合計1.5時間カラオケに行ってしまいました。理由は簡単です。バイトで教える生徒が授業に来なかったので私がわざわざバイトに足を運んだ意義が消失したため、意義を補完するためです。

 

書きたかったのはそれだけのことです。ブログなんて所詮そんなもんです。

 

...。

...。

 

最近幸せなんですかね。でも本質的には幸せじゃないとわかっててオセロに興じたり、友達とバカみたいに笑ったり、深夜の代々木公園で人がいないのをいいことにベラベラ喋ったり、色々やりたいことを書き出しては「自分には好きなことがあって幸せだ」なんて幸せな擬態をすることと、本質的に自分は幸せだと自分自身を騙し込むのはまるで違います。その限りにおいて幸せじゃないけど幸せ。このニュアンスは私にしかわからなくていい。

失恋した人々に捧ぐ持論

どうも、エンジニアとしてインターンでコード書き始めた結果、自分は自然言語を書いてる方が好きだということに気付いてしまった無能ちゃんです。ゆえに、文章を書きたい時は好きに書き散らすことにします。文才があれば何らかの形で生業にできたのかもしれないがあいにくなので、いくつかハッキリしてきた"やりたいことの中で特にやりたいこと"たちを結び付けた仕事はないかと大学二年生は存分に頭を巡らせたい。またいつか。

 

かねてから書きたいと思っていることを書きます。質問箱ってあるじゃないですか。私の質問箱に恋愛のこと聞いてくれる人、私は自分ではあれらの回答者として半分適役で半分真逆だと思っています。

 

適役だと思う理由について。そもそも質問箱って相手のことがわからない以上、提示できるアンサーは普遍解に絞られるんです。みんな少なからずそれをわかって投げてくるはず、ゆえに求めるのは"相手の背景や人格を深く理解した上での的確なアドバイス"より"普遍解であっても一つのアドバイス"。つまりよっぽど恋愛が得意な人は自己解決するだろうからあそこに投げてくるのは恋愛がそれほど得意でない人だと私は勝手に解釈しています。

そりゃ鍵垢で可愛い自撮りでTwitterやってる恋愛上手な東大女子に聞くより、立場としては近い者の声が聞けると思います。こんな者でも役に立つことがあるのなら今後も使ってくれると嬉しいです。

 

でも本音としては私じゃない人に聞けたらそれが望ましいだろうと思ってるよ。それは私は圧倒的に恋愛より失恋のプロだからです。ということで文字数を気にしてしまう質問箱ではないここで、失恋した人に対する自分の持論を渾々と書いていこうと思います。

 

まず失恋した時こそ、冷静に頭で日数勘定をしてカレンダーにでも丸をつけておくなり脳内に留めておくのは結構オヌヌメ。日数勘定とは以下のようなものです。

・恒常的に落ち込む期間(私は約1週間)

・気分が暗い時と前向きになる時が交互にやってくる期間(私は約1ヶ月)

・ほぼ元気だがたまに思い出す、でもほぼ快復していく期間(私は約3ヶ月)

注意点としてはアクシデントが発生した時、たとえばこの間に想定外に相手に恋人ができた時などはこのサイクルは哀れなことに当然崩れます。でも順調にいけば比較的この通りいきます。私が死んでも離したくないと思える相手に出会ってないだけだ、舐めんなという説は大いに認めます。

ですがこれまた哀れなことに、逆に言うとこの通りにしかいかない。さっさと忘れたい、元気になりたいと考えていても、複雑な機構を持つハートちゃんは言うことを聞いてくれません。彼?彼女?がしっかり事実を認め自然と快復する方向に向かうまで、悲しいことに全快はできません。

ゆえに自分のサイクルを頭に入れて、その間は「あー落ち込んできたけど予定通りなので大丈夫、あと数日の辛抱」と言った具合に自分の心の動きに身を委ねてしまうのは大いにアリなのではないでしょうか。そしてこの間は何をしても思っても「失恋から逃げてるだけだ...」なんて後ろめたく思わないで、「逃避ですが何か?」という開き直りで全く構わないと思います。逃げるは恥でもなければ役にも立ちます。

 

以下、全快までの期間にできる逃避策を徒然なるままに書き殴っていきます。

 

・第一、自分と付き合わない方が悪い

 

 

 

........。

一発目なので過激にいきました。失恋といってもいくつか種類はありますが、これは自分から告白したけど振られた場合に適用専門かも。

傲慢だって言われそうだけど、いや頭の中で思っとく分には自由では??自由が丘です。

大体「失恋した」という事実は「相手は自分と付き合ってくれるだろうと少なからず期待していた」ということを暗に仄めかしており、完全に自信が永遠のゼロの方には到底できない芸当だとも言えます。永遠のゼロって百田さんじゃないですよ。ゆえにこの人はダメだったかもしれないけど、地球上に35億も異性がいれば自分のことを好きになる人間はさすがに1人以上はいるでしょう。もしかしたら同性からも好意を寄せられる可能性だってあります。せめて青空を見ながら背筋だけは伸ばして歩こう。

 

とはいえ、例えば容姿も服も清潔感がない、何にも得意なことはない、なのに自信があると言い張るのは神様もキレるかもしれません。ということで、

 

・自分磨きをする

漠然とした言葉に逃げましたが、これは容姿でもなんでもいいと思います。「君よりいい人なんていないよ...」と心では咽び泣いても、「もっといい奴見つけっからな...!」と元気な時に息巻いてせっせと何食わぬ顔で頑張ること。この過程で相手が振り向いてくれたら万々歳だし、そんな現実はそうも転がって来なくてもずっと"可哀想な自分"に酔うくらいなら前向きな顔というお面を付けて頑張る人間の方が客観的に見てカッコイイです。"こんなに惨めなのに頑張る自分"に酔ってでもなんでもいいので建前を保持することは何より大切なことです。そしてこれは後々人間関係全般や新たな出会い、そして自信に効力を発揮していくことでしょう。

 

・好きなものを沢山見つけよう

前に自分を支える軸の話をしました。何にせよ自分を支える軸は多い方がいい。「お前なんかいなくたって幸せだ」って言える幸せなもの、その人のことを考えずに済む好きなものを沢山見つけよう。無心でオセロゲームとかやるのも結構いいですよ。あれは戦ってるうちにどんどんコンピュータのLv.が上がって「ぬぬぬAI!!!!!お前も強くなっているがしかし私も負けない!!」と燃え滾ってきます。アプリの名前は『リバーシZERO』です。

脱線しましたが何にせよ元気になった時に人生を豊かにするコンテンツとして一助となることでしょう。世の中何でも長期戦です。何かに依存することなく好きなもので溢れたあなたの方がいつか好きになってくれる人は愛し甲斐があると思います。

 

・ビジネスにしてガッポガッポ儲けよう

これは別にお金に替えようって話ではありません。いや、お金に替えてもいいんですが単に飲み会のネタにするとかのレベルでも大分気が楽になります。 私は残念ながらバカ舌なので日本酒とかは味の美味しさがわからないのでカクテルばっか飲んでるのですが、最近気心の知れた友人と飲んでいる時に酔ってなくても笑ってれば勝手に気分が上がってくるライフハックを身につけました。

もちろん共通の知人とかが飲み相手だと当人に伝わる危険性は高いので使えないことは多いですが、酒の肴にするのは結構旨いです。「人の噂をすると噂された側はくしゃみする」とかいう都市伝説だか諺ってあれ本当ですかね?せいぜい自分の良心が疼くか否かというくらいで、肴にされたところで当人には何のダメージもないのであんまり鬱になるくらいならこれからも続く友人関係に利用"させて頂く"方が当座の幸せは得られるかもしれません。

余談ですが、最近LINEマンガで「かぐや様は告白らせたい」を読んでますが、自分から告白した方が負けみたいですね。こういう時も振られた方が負けにならないように、しっかり利用できるところは利用させてもらって対等な立場を築きましょう。

 

・酔ってませんか?????

 これは酒に酔う話の続きではありません。

人間は手に入らないものこそ固執しがちです。いや、「人間」を主語に持ってくるのは非該当者から一斉にバッシング食らう可能性はありますが、あくまで傾向の話です。

それに運命の相手っているんですかね。ここら辺小説とか読んでると然もありなんという感じがしてきますが、例えば東京とニューヨークで遠距離恋愛をする話で「この人しかいないと思った」とかいう描写、ちゃんと東京とニューヨークの隅々の街区を駆け回った上の結論なのか、それともブエノスアイレスにも行ってみたらいい人はいるかもしれんし。集合団地とかもちゃんと一軒一軒訪問したんですかね。

何はともあれ手に入らなかった相手、手から零れた相手を「あんなにいい人とはもう出会えない」と結論付けるのは性急に過ぎませんか。ちょっと酔ってませんか。人生の終盤になって振り返って「確かにあんないい人とは出会えなかった」というのと、まだ20年かそこらしか生きてないのに「あんないい人とはもう出会えない...」というのでは厚みが雲泥の差です。心のどこかではそう思っていても建前としては拒絶しないことが大事です。

本当に、世の中、腐るほど、人間は、います。

 

・都合のいい相手になろう

これは最後。何でその人と付き合ったか、付き合いたかったかを考えてみよう。

A.人間性とか正直どうでもいいけど顔が好き、恋人らしいことがしたい

これなら迷うことはほぼないでしょう。世の中一般に言う都合の良い相手になれないか頼んだらいい、ダメだとしても顔がいい相手は山ほどいるのですぐ代役は見つかると思います。解散。

B.顔とかじゃなくて人間として好きだった

すっっっごいクズ発言だけど、恋愛界の頂点じゃなくて友達界で上り詰めようぜ。

最近つくづく思うのですが恋愛のどこがダメって永続性の@NASAだなと。友達ってよっぽど酷いことしない限り双方ないし片方に続ける意思があれば基本ずっと続くじゃないですか。幼馴染とかまさにそれです。なんで恋愛って破綻するんですかね?もちろん破綻する前提はおかしいけど、大学1,2年で付き合ったカップルの結婚率は一回ggってみる価値はあります。

だったら、友達だったらずっと別れないで一緒にいられる。これを卑怯だって思いますか。私は全然そうは思わない。自分の世界にいてもらった方が1mmくらいは楽しくなる人なら自分の世界から追い出すのは損です。受け身じゃなくて能動的に"よき友達"の鞘に収まること、ゲーム理論の選択肢として活用してみてはどうですか。

どうせ本当に縁のある人間ならいずれまた巡りあうと悠々と考えてる私はやっぱり運命論者なんですかね。

 

 それでもきっと誰もがこれからも不可抗力で好きな人ができたり、失恋することはあると思います。無垢な恋愛を横目に厭うこともあると思います。

大事なことは人間に過度に期待しないこと。形にならなかった恋愛を悼む暇があれば般若心経のことを考えている方がよっぽどマシです。なんでこの世の中は全員が全員好きな人と結ばれないのでしょう。それでも世界には果てしなく見るべきもの、出会うべきものはある。

とにかく自分を大切にして、自分のために相手にできる最高の復讐、即ち幸せになる方法を考えよう。いつの日かそれがどうでもよくなって自分に返ってきます。そしてその優しさを振りまける日はきっと来ます。他人から与えられるもの以上のものを与えられるいい女になれる。まさしくハッピーターンというやつ(?)

 

おしまい。なんだかんだこれ語り口調で書いてるけど私は全部自分のために書いてるんですよね。無垢でキラキラの優しさしかない人より自分なりの地獄から生還した清濁飲み込んだ優しさの塊になりたいよな。最近、表紙の猫が可愛いというだけの理由で図書館で借りた中山可穂さんのエッセイから彼女の小説にハマっています。とりあえずこのブログを読んでくれた傷ついた方々の行き場のない悲しみへの黙祷を捧げます。

 

 

 

 

 

幸せになるための実践的方法論Ⅰ

段々と暖かくなり梅や桜の蕾が日常に彩りを添える様を見ていると、春という季節は私にとっていつの年も、理不尽さを孕んだ現実を吹き飛ばすような魔力を持っているように思います。まあ花粉症じゃないのも大きいと思いますけど!←多方面に突然売られるケンカ

 

世の中には死について考えることが好きな人がいたりとありとあらゆることが考えつくされていますが、私は常々幸せについて考えることが多いです。新興宗教じゃないですよ(念押し)私は文学なり哲学には学問的にはさして関心はないので、あくまで体験ベースで20年間生きてきた一つの自分の価値観として幸せになるための方法を残しておこうと思います。

自分の力ではどう足掻いても手に入れられないもの、変えられない現状に対してどうにもならない負の感情に囚われている時、不幸な自分の境遇を嘆くよりそれから自由になる方がよっぽど合理的です。悲しいかな、私たちには時間がありません。自分と向き合い適切な方法で少しずつ幸せになろうとすることは同時に限りある自分を大切にすることです。

 

これは一番実践すべき時こそ頭から抜けがちな自分に対する戒めとしての備忘録、ないし大学一年生の自分に対するレクイエムとして捧げようと思います。

 

・自分の感情を認める

たとえばの話、容姿って先天的な不平等の中でかなり大きな部類に入ると思っている。ミスコンとか美女図鑑とかに出ている人、眩しすぎますよね。顔がいい人だって努力してるけれど顔に自信のない人が同じ水準に達するには比類のない時間や資本が必要だと思ったり、「○大のミス、××のキャバクラで働いてたw」とか友達とのサシ飲みで聞くとまじーwとか笑ったり。当方性格が悪いな。

でもここで粗探しをしてリプを送るクソリパーになるのは絶対に違う。その感情から自由になるというのは自分と対峙することであり、臭いものに蓋をして見て見ぬふりをすることではない。その成れの果てはただの拗らせです。

大学受験だってそうですね。行きたかった大学に及ばず不合格を食らって浪人することになった時、新生活がスタートする高校同期を見て言葉にならない感情がいっぱい込み上げると思います。でもいかに前年度の模試が良かろうとその事実を認めるところから新しい一年は始まるのだと。

人が持つものを羨ましいと思うのは当たり前の感情で、ただそれを持つ人を僻んで攻撃することは不合理なことです。まずはその渦巻く不快な自分の感情を認めること、その上でその領域で劣らない努力をしつつ自分の相対的に勝てる分野を見つけること、このステップこそが自分の醜い感情から少なからず自由になることだと考えています。

 

そこそこ前に読んだ記事がありえんいいなと思ったので、ぜひみんなにも読んでみてほしい。

「自分を認める」とは、自分の精神解体ショーをして、腐臭ただよう臓腑をのぞきこむことだhttp://papuriko.hatenablog.com/entry/2015/03/30/120844

ちょっと似た話で、落ち込んだ時は自分の意のままにならない心に身を任せてとことん落ち込んでしまうのも手だと思っています。自分の解釈としては大した理由ではなく滅入った時は気分は2次関数、そこそこ理由があって鬱になった時はn次関数(nは3以上の自然数)の放物線を描くことが多い気がします。つまり、気分が滅入っても頂点やいくつかの変曲点を経験すれば自然と上がっていく。これは私がまだ真のどん底を経験していない甘ちゃんだという批判は多いに受け止めますが、あくまで体験ベースなのでごめんなさい。

 

・考えても仕方ないことは考えない

例えば誰かの恋人を好きになったらどうしようか。きっと土日家にいる時に彼女/彼氏とデートする姿を想像して胸を潰される気分になるのではないだろうか。

でもここで考えたいのは、想像して悲観したところで現実は改善するのか?
悲しい想像をしたところで現実が変わるくらいなら、世の中の妄想は夢の島でも街のゴミ処理場でも片付けられず道を埋めていることでしょう。自分がいくら何を考えても変わらない現実なら考えるだけ無駄で、自分自身の葬式をして無駄に消耗して可哀想な存在に貶めるくらいなら違うことを考えた方がマシです。そうは言っても思うようには行かなくとも、少なくとも四六時中亡霊に悩まされるよりはずっと自分を労わることと言えます。

余談ですが、最近読んだ本の中でタイトルがえっちいなと思ったのは辻仁成さんの『人は思い出にのみ嫉妬する』です。

 

・怒ることができている間は大丈夫

最近見た LINEの記事の『悩み事の9割は「うるせぇバカ」で解決する』は過激ながら言い得て妙だなと。朝から寝坊して満員電車でおじさんに足をガンガンに踏まれて職場で怒られまくる日、勝手に大人の一日を想像するだけで悲しくなってくる...うわ社会出たくない...

ただこの場合に限らず、対人関係で嫌なことがあった時など、「自分ばっかり不公平...」と鬱にならず「は????世界舐めてんの???」と怒れる自分に気付く瞬間、世界は結構明るくなります。怒るってエネルギー必要だし、自己肯定感が低い時には周りに怒るってあまりできない芸当だと思うので。芸当(ゲートー)だけにgate(ゲート)みたいな..........え!?!?!?

いいことがあった時にはその理由を自分自身に帰結させ、悪いことがあった時はそうはしない。この考え方ができないと鬱の素因となってしまうみたいです。(総合C系列・教臨心)

 

・人に過度に期待しない

めっちゃいい人だなと思ってた人が女性関係めちゃくちゃな話とか聞くと、これもうわかんないわー現世終了のお知らせーみたいな気分になることはあると思うのですが、他人に失望したりする時ってそれは少なからず期待をしていたからだと思う。

もちろんは人間は一人では生きていけないし、人間存在自体を信用しなければこの世に生を受けたことはあまりにも苦行と化してしまうけれど、やはり何事においても自分を最後に救えるのは意志の宿る身体を有する自分でしかない。ゆえにちょっと冷たいタイトルに聞こえるけど、自分自身が人生の舵取りをするぞ!という気持ちだけは揺らがすことなく、その上で完全ではない人間を愛していきたいものです。縋る相手と頼る相手の区別を付けたい。

 

・好きなものを増やす

大体自分の好きな友達には自分よりも"友達重要度ランク"が高そうな友達がもっと前からいますよね。ってか対人関係までスーパーの早売りみたいに早い者勝ちなのギルティよ!正々堂々と3位決定戦を一騎打ちで戦おうではないか!みたいな心境になることたまにありますよね(ならない?失礼しました...)でもそれは仕方がないことでもある。

これから新歓期で大事な友達が忙しそうであまり会えないとか、2Sが始まったら今までと違って息を吸うように人と会えないかもしれないとか。何だかんだ私は1年の時に二外の授業で会えていた同クラとか会う努力をしないと会えなくなるかもしれないことが寂しいと思っているのですが、大事なのは自分を支える軸がちゃんといくつもあった方がいい。

自分の関わる知り合いを増やす、好きなものを増やす、など軸が沢山あってその上で太い軸がいくつかあれば、軸が一本倒れてもそれほどぐらつくことはないのかなと。

ちなみに人間はずっとそばにはいてくれないけど、芸術とか書籍とか音楽とかとにかく人間の生み出したものたちはいつでも自分が望めば寄り添ってくれます。海とか空とか自然なんかは人間の意思によらずそれ単体で満ち引きしたり晴れたり曇ったりします(自然破壊とかはあると思うのですが...)その堂々とした様は憧れなので、人間も好きだけど私はそれらが好きです。

・食う寝る所に住むところ

若干逃げにも聞こえるけれど、寝るのは最高。というのは私がすぐ寝られる体質だからってのもありますが、寝てる時は何も考えない至上の時間で、しかも起きたら結構寝る前に考えてたことの殆どがどうでもよくなってる。大学でも気分が微妙だったら図書館でお昼寝するのめちゃおすすめ。物は盗られないように対策してね。

あとお風呂はいいです。大体怒ってる時とか「やば、今お風呂はいろ」と思って意図的に入浴してくるとお風呂から上がる頃にはそのことどうでもよくなるの神。お風呂最高!中目黒の「光明泉」で露天風呂で東京の漆黒の夜空を見上げるのは超オススメです。

美味しいものを食べるのもずっとアリだなと思ってたけど、結構気分が優れない時って美味しいものの味がわからなかったりお腹の調子まで狂う時、余裕である。この間失恋したての友達とたまたまその日に食べ歩きの予定してたら全然食べる気力すら湧かないみたいでわかるなあと。だから美味しいものとか非日常のものを食べるのはノーマルな気分をさらに上げたい時のことが多いかもしれない。

・打算的運命論者になる

 例えばお気に入りのイヤリングを深い水底に落としてしまった時、それでも世の中にはいくら割り切ろうと不如意なことで溢れているし、願い事が叶う魔法がこの世にあったらどんなに楽だろうと切に願うことは多い。あまりにも多すぎる。

でもそれが自分の努力や意思が何とかなるものではないなら私は諦めます。簡単に諦められないことも多いと思う。でも諦めることは逃げではないのだから、上のステップを全部踏んだ上でゆっくり自分の中で諦めをつけていきます。というのは私がちょっと運命論者みたいなところがあって、本当に縁のあるものなら長い人生何があるかわからないと都合よく思っているからかもしれないけれど。

未来は今の結果としてのみ生起するもので、長い目で見て結局どうなるか、何がよかったかなんて今の感情だけでは判断することは到底できない。それに私の持つ時間は限られている。だからその分今を生きることにします。

 

状態を幸せじゃない/普通/幸せの3つに分けるなら、正直普通のテンションの時は好きななこと何かやってれば簡単に幸せにはなれると思っている。ゆえに幸せじゃない時の舵取りをいかに上手くこなせるかが鍵になるとこあるなと。なんか新興宗教みたいなテンションになってきて恥ずかしいので思いついたら適宜加筆訂正します。Galileo Galileiの「夏空」はやっぱりいいですねー。

最近何してますか?

梅の香りが爽やかに漂う春暖の候、皆様はいかがお過ごしでしょうか。

私はというとテンプレのような時節の挨拶から入る程度には穏やかな日々を送っています。大体穏やかに心が凪いでいる時はあまり物申したい気分にもならず、純粋に「今日も楽しかった〜!」とか呑気な自分に気づいてはこれでいいのかと不安に駆られるものです。いいじゃん!穏やかに幸せな状態の何が悪いんだよ!

ただ、不安に駆られる理由は二つあります。一つにはこの後に控えている落差に対する恐怖心。人間の心は交流電圧のようなもので、半周期的に向きと大きさが変化します。(今中学生に理科を教えてるのでめちゃめちゃ電気の話がしたいイキリヲタク)だから幸せな時こそ「また悪いことがあるだろうから心の準備をしておこう」などと覚悟を決めがち。幸せに対する臆病さにはホトホト呆れますね。

もう一つは状態そのものへの疑念。皆さんは久々に会った友人などから発せられる「最近、何してる?」という無邪気な質問をどう思いますか。これ、残酷な質問じゃないですか。私は「何ってなんだろう〜笑」とか首を傾げてる自分がいる時、すごく勝手に何かに負けた気分になります。幸せだということはきっと好きなもの、楽しんでいるものが生活の中にいくつもあるんでしょうけど、何に重きを置いているのか、どれが比重が高いのか自分の言葉で簡潔に言えないのは自分の生活の主導権をイマイチ握れていないのではないかと。

という訳でこの春休みの目標は「最近何してる?」の返しをビシっと決めること。その前に最近のことや好きなものについてつらつらと書き連ねます。ね、まだまとまらないんですけども。

お金の使い方。

大方お金が流れがちなのは食費ですが、最近の支出の基準は「三ヶ月後にこの食事のことを思い出せるか」です。「僕は今日昨日のきみとデートする」みたいですね^^(は?)

大体バイト帰りにサクッと食べるご飯がちゃんとしたお店であっても牛丼であっても私は思い出すことはほぼないので、ならお安く終わらせて数百円貯金しようとか。逆もまた然り、真性のウェイの方と違って見知らぬ人とのコンパなどはそんなにないのですが、行って何か他人との関係性が変化することのなさそうならその分、友人とのご飯に代えようとかいいもの食べようとか。

「使うときには使う、使わないときには使わない」の「使う」の例として、今年に入ってミラーレス一眼を購入しました。晩秋の銀杏並木を撮った写真を駒場友の会のカレンダーに掲載して頂けることになったのがきっかけです、ありがたい。まだ使い方すら危ういですが、せっかくなのでカメラで一瞬一瞬を残していきたいなという意思はある。(意思はあるんですよ...ハイ...)

人間、好きなんですけど嫌いな時もままありますね。平気で人のこと蔑ろにしたり可愛げない時多くないですか。やっぱり空とか海とか犬猫の方がそれ自体で独立して堂々としていて恒常的に好きなので、人間を無条件に愛せるのはもしかしたら優しい人じゃなくて傲慢な人なのかもしれない。

旅行。これにはお金を投じたい。ここ数日の間に友達と長野に雪山と星を見に行って浜松で海を見ました。春は富良野のラベンダー、ひたちなかネモフィラが見たい。瀬戸内海をチャリでサイクリングしたい。見たいもの、したいものに惜しみなくお金を投じることができる生活を求めています。(気軽に誘ってくだちい)

働いています。

ということで、何をするにもお金が必要です。(ここ大事!)

私の主な収入の柱は個別指導とインターンです。後者の話をしてほしいと言ってくれた人がいるのですが、私が主に後者の話や勉強の話をほとんどしないのは理由があります。私は自分の能力の及ばなさを自分に対しても隠し続けてる「意識高い系」が苦手で、私自身も能力は高くないながら背伸びをしようとしている身分なので人様、特に優秀な東大生たちの前に出せるものはないなという。

とはいえちょっと書いてみると、立ち位置としてはエンジニア兼ライターという感じです。論文を読んで勉強したり、コードを触ったり、会社のHPで連載を持たせてもらおうとしています。競プロ界隈とか見ていると私はああはプログラミングが好きな訳ではなく並の文系大学生と一味違う武器が欲しいだけなので、きっとそれ自体を仕事にすることはないのですが、やってみて自分の選択肢を広げること、逆に切り捨てることに役立つという点からでもやってみてよかったと思っています。

うん、連載の方を書いてて思うのが自然言語書いてる方が楽しいんですよね、やっぱり。(ぜひ波に乗ってきたら会社のサイト見てください♡)

好きなものを増やそうプロジェクト。

3月も恙なくやり過ごせば2Sがやってきます。クラスが一旦解散になりますね。寂しがり屋で人間にべったりしがちだからこそ、人間に依存せずになるべく幸せになれるよう今から好きなものを増やそうプロジェクトを推進しています。生きるのに軸が多い方がずっしりと立ち続けることができるだろうと。

最近面白かったものを映像、書籍問わず列挙します!ジャジャーン!

ラブホの上野さん

何なんだ!このタイトルから漂ういかがわしさと内容の説得力と最終回で流れる涙は!!!!異性に限らず人全般とのコミュニケーションに不安を抱える全国の人々、サクッと楽しめるドラマが見たい人、主演の本郷奏多の美しいお顔が見たい方、全員に見て欲しい。このドラマのせいで人と会話する際に「あっ、これは(登場した会話テク)ではないかっ!」と逐一感動しています()

・凪のお暇

友達の推薦。すごーくゆるっとした雰囲気の中で、何もかも捨てて新たな地で生きていこうとする主人公の見え隠れする真っ直ぐさ、ひっくり返る価値観、清涼感どれもいい。地味にクズな元彼がキャラとして好きなんですよねー。

・The Fault in Our Stars

これ最近よりちょっと前だけど、日本では「きっと、星のせいじゃない」のタイトルで知られる映画の原作を読みました。私は繊細な表現ができるのは日本語ならではだと思っていたんですが、英語でもこんなに細やかな言葉選びができるんだなと感銘を受けました。

他にもいくつか個人的にオススメして頂いているものもあるので、じっくり見ていこうかなと思っています。にしても「好きなものが増えれば比例して世界は明るくなる」は真であり偽でもありますね。好きなものが終わりを迎える度に、その世界に戻ることはできても最初の煌めく「こんにちは」は二度とできない。人でも物でも好きになるってそうそう手軽に得られる幸せでもなんでもないと思います。

 

こんな取り留めもないことを書いたり考えたりしていると、世間に対して「不条理だなあ」なんて考えている自分は愚痴愚痴マンなんじゃないかと思ったり。

でも、たとえば容姿って世に存在する不平等の例じゃないですか。そもそも美醜は誰が決めたんだろう、とか。「ブスなら努力すればいい」って言うけれど、美人に近づくためにはお金や時間を投資しなくてはならない。生まれもった顔の違いってやっぱりズルイなと思ったり、持たざる者が僻むのは私は卑怯なことでも何でもないと思っています。

だから私は容姿という先天的な要素で人を判断する人が苦手だし、何ならミスコンの類だって「容姿がいい」というのは「勉強ができる」「運動ができる」といった要素と同格なものだと口では言いながら、やっぱりミスコンや美女図鑑に出られる人が羨ましいです。もちろんそれは一握りの人ではあるけれど、そうでない私たちはこの世界で生きていく以上、まず自分の根底にある「羨ましい」という感情を認める努力をしなくてはならない。

 

その上で、できるだけ自分の容姿のレボルバーを引き上げつつ他のフィールドで戦える素地を作るというスタンスを受け入れるのと同様に、そんな不条理に争いつつも受け入れてこの世界をまるっと愛していきたいと思う春も近づいた冬の終わりなのでした。みんなは最近何してますか。

 

 

 

 

 

オブザイヤー2019

明けましておめでとうございます。年が明けたら何がおめでたいんだろうとは常々思っとるのですが、年の変わり目というワンクション挟むだけで白濁した川から汚れが取り除かれたような感覚を覚えますよね。「年」とか「正月」とかいう概念を導入したら人類はすごい!!!でかした!!!

 

みんなは初詣に行きましたか。我がご近所の神社は住民と不仲気味なのと住民が陰キャなので1時を回るとほぼ神主さんや巫女さんも閉店ガラガラの雰囲気を出してきます。仄暗い現実というべきか穏やかというべきか。(注:住民が陰キャという訳ではありません)

逆に明治神宮とか大変ですよね。大学の入学時の健康診断の時のお医者さんみたいに神様もとにかく人を捌くのでさぞ辛苦していることでしょう。という訳で、私はなけなしのお賽銭と引き換えに神様に「今年はいい一年になりますように」といわば甘い幻想なる賭けに出ることは危険だとつくづく思っている。やっぱり今年も自分の人生の手綱はしっかり他でもない自分が握っていきたいものです。

願うなら、「今年もいい一年にするので見守っていてください」かな。

 

新年の誓いなるもの、立てた一ヶ月後にそれを覚えていた試しがなかなかないもので立てるのは徒労に終わるだろうという予感があるものの、ざっくりとでも考えていることを少しだけフワフワと残しておきます。to do系はきっとなんとかするので(雑)ざっくりとしたことだけを書きます。

 

挨拶は元気よく

小学生の夏休みの目標みたいなのが来ました(笑)

ただ、駒場の門のところで某大方程式のテレビクルーなんかに定点撮影を頼んでみたらわかると思うのですが、守衛さんに元気よく挨拶できる人は少ない。私も気分が朝から滅入っている時なんかは元気ない会釈で返したくなってしまうが、いや待てよと。病める時も健やかなる時も、あそこで行きも帰りも笑顔で大きな声で守衛さんに挨拶をできるか否かだけで、その日駒場で過ごす時間の質は10%くらいは変わると思っている。

お砂場で男の子に砂をかけて怒られていた幼稚園の頃の気持ちを大切にしたい(?)

 

余談ですが、幼稚園の頃の気持ちを大切にしすぎて、未だに横断歩道を渡るときに誰もいない時や友達がいる時こそ一人で手を上げて渡っています。ピンと手を伸ばす快感を思い出そう、みんな。

 

心理的に合理的に生きる

2018年最後に読んだのがアドラー心理学の本でした。

人間とかいうの、心という生き物と一生を共にする訳ですがこの子とは上手く付き合わないと時間も精神もかなり奪われることになります。ゆえにこれまた基本的にはこちらが主導権を握って飼い慣らしつつ、気まぐれで翻弄されてあげるくらいが理想ではあります。(なお現実)

 

例えば、私が年が明けることに言うほどめでたさを感じていない理由に「言うてあけおめLINEが来ない」という現実が挙げられます。これはひとつあくまで受け身の姿勢で自分から送ってないだけ、というのもあるでしょうし、ここで「友達が少ない」などと邪推をするのは無駄な消耗です。あけおめLINEが来まいが交友に変化はないのだから、事実を主観的に曲解すべきではない。

 

もうひとつ昨年同様自分に対して約束したいと思っていることは、自分で自分の品位を下げる行動はしないということ。やっぱり自分の言葉によって自分自身が呪縛にかけられるのは勿体ないので。

 

資本は大切に

いやはや。美味しいものを食べるにも、旅に出るにも、綺麗になるにも、何をするにもお金が要る。

 

先日、朝の情報番組・某ッキリの特集で「海外勤務ながら彼女に会うためクリスマスに日本に戻ろうとしたら、節約すべく上海でトランジットしようとしたらそこからの飛行機が飛ばなくなり日本に帰れなくなった」という話をしている男性がいて、私は完全にそっち派ながら父が「大事なところでケチるからそうなる」と辛辣な意見を申していまして。

なるほど、常に70くらいの裕福度で生きることを目指すより50、時々100の生き方はメリハリがあるなと。2018年は前者でしたが、本年は後者を目指します。しっかり生きるべくお金を貯めようという話です。

 

駆け引きと交渉

私たちが生きていくうちで上手い関係を築く必要のあるものに先述の心と同レベで時間が挙げられる。

こればかりは有限なので、迷っている暇があればまず乗ってみる、これは違うと思ったら手を引く勇気とエネルギーを持つ。言葉にするとありきたりですが、選択肢や出会いが増え、私の世界が拡張するに伴って時間との上手い駆け引きと交渉は欠かせません。

 

長々と書きましたが、最後にいくつか考えていることを挙げておくので、特に久々に会った人とかはせっついてくれると嬉しいです。

・臆せず海外に出る(→2回の長期休みどっちも想定している)

・生活に抑揚を付ける

・一流のモノに触れる機会や環境を作る

・学生のうちに恩恵を受けられるものはしっかり享受する

・資金を貯めて投資の準備

 

2018年は旅行に喩えるなら、「海外には行けなかったけど、国内をそこそこ満喫してかつ初めて一人旅もしたー♥️」という穏やかな状態でしたが、本年はより起伏のある変化の年にしたいと思っています。強く逞しく可憐に、しっかりと地を踏みしめて歩きます。

 

新年早々好き勝手書きましたが、今年も人間が好きです///皆々様本年も一緒によりよい一年にしていきたいので今年もよろしくお願いします。